Writing is Thinking
「書く」が自動化されるし「読む」も自動化される中、我々はそれでもなぜ「書く」のか。「書く」とは「考える」ことだというのがポール・グレアムの考え。ポールのエッセイを読み返している。
You can know a great deal about something without writing about it. Can you ever know so much that you wouldn't learn more from trying to explain what you know? I don't think so. I've written about at least two subjects I know well — Lisp hacking and startups — and in both cases I learned a lot from writing about them. In both cases there were things I didn't consciously realize till I had to explain them. And I don't think my experience was anomalous. A great deal of knowledge is unconscious, and experts have if anything a higher proportion of unconscious knowledge than beginners.
書かなくたって多くを知ることはできる。では、知っていることを人に説明しても、もう学ぶことなど何ひとつない。それほど “知りつくした” 状態はありえるだろうか。無理だ。ぼくは自分がよく知っている2つの主題についてこれまでずっと書き続けてきた。Lispハッキングとスタートアップだ。どちらの主題でも、書くことで多くの学びがあった。どちらの主題でも説明をするまで意識的には悟ることができないことが多々あったんだ。ぼくの経験はそんなに特殊ってわけじゃないだろう。知識の多くは無意識化にあるのだし、専門家のほうが初心者よりむしろそうした無意識の知の割合が多かったりする。
ツイートはできてもブログがかけない参照。
思考するためにノートテイクするでも、なぜノートテイクするかというと、単に記録する、記憶を外部化するだけでなく、考えるため、考えた結果を外部化し再利用可能にするためだと書いた。
が、これを相談してくれた人の相談意図とは違ったらしい。「まあそう言うだろうな」とは思ったんだが、単なる方法論だったら、相談者の人なんか、ぼくよりよっぽど調べてるだろうし、相当賢いからそんな情報は必要ないだろう。けれども「既に頭の中に明確な思考があり、それはいつでも取り出せるのだから書く必要がない」なんて、それだけ賢い人が賢いからこそ信じ込んでいるんだとしたら、あまりにも世界にとってもったいないし、こうしたドグマはむしろ賢い人のほうが強固に持たざるを得ない可能性も高いと思ったので、あのように回答したわけだが。
「書かなくても考えられる」という思い込みのほうがむしろ相当もったいない
若い頃から自分が考えたことをきちんと「書く」ことで残しておけばよかったよ。その後悔しかない。
若い頃は書かなくても考えられた(と思える)としても年齢いくとそうはいかない。そのことに気づく。だから若い頃からWriting is Thinkingだと悟ってればよかった。
賢い若い人バイアスの存在に賢い若い人はなかなか気づくことができない。賢くもないし若くもない自分には気づけたとしても。
Putting ideas into words doesn't have to mean writing, of course. You can also do it the old way, by talking. But in my experience, writing is the stricter test. You have to commit to a single, optimal sequence of words. Less can go unsaid when you don't have tone of voice to carry meaning. And you can focus in a way that would seem excessive in conversation. I'll often spend 2 weeks on an essay and reread drafts 50 times. If you did that in conversation it would seem evidence of some kind of mental disorder. If you're lazy, of course, writing and talking are equally useless. But if you want to push yourself to get things right, writing is the steeper hill. https://paulgraham.com/words.html
アイデアを言葉にするってことは「書く」を必ずしも意味しない。もちろんだ。あのいにしえの「話す」だってある。だけれど、ぼくの経験から言えば「書く」はより厳格なテストなんだ。「書く」ときは、一つの、最善の語句シークエンスにコミットしなきゃならない。声のトーンで意味を伝えるってわけにはいかないんだ。それに「書く」なら会話では過剰とされてしまうくらい一点にフォーカスすることだってできる。ぼくは1つのエッセイを書くのにしばしば二週間かけるし、ドラフトは50回読み返す。会話じゃこうはいかない。この人病んでるのかな?と思われるのがオチだ。もし君が怠け者なら当然「書く」も「話す」も変わらない。どちらも等しく「無用」だ。けれども「ちゃんとしたい」なら、「書く」のほうがより険しい試練になる。
AIが自動で大量の、しかも「質の高い」文章を書いてくれる現代。読者すら人間ではなく、賢いAIだけになるかもしれない、伝えるために「書く」必要はあるのか? ついつい疑ってしまう。
でもポール・グレアムは違う。AIが文章のほとんどを「書く」時代だからこそ、人間は「考える」ために「書く」必要があるし、「考える力」を身につけるために意識的に「書く」時間を増やしていかなければいけないと考える。それは肉体労働をほぼする必要がなくなったからこそ、筋トレやワークアウトをしなければいけないのとまったく同じなのだ。
「書く」ことが「考える」ことになるのは文字化、テキスト化が本質的というわけではない。
反応する時間を遅くする
単一のパーツを構造化する
反復する
寝かせる